小樽・余市間の道を思う4

小樽海岸自然探勝路にて2007年11月10日

先日11月8日に小樽築港で「ALWAYS続・三丁目の夕日」を観る。
私が中学1年生の時の昭和34年を夕日町三丁目の住人とともに笑って泣いて感動したいい作品でした。
11月7日に市立小樽図書館で下記の二冊を借りる。

1)ホーレス・ケプロン著西島照男訳(昭和六十四年四月五日再版)ケプロン日誌  蝦夷と江戸 北海道新聞社 札幌
2)西蝦夷日誌 四編 小樽関係抜粋 松浦武四郎 市立小樽図書館(T291.1 マ 4)

ケプロン1873年(明治六年)8月21日小樽内を午前七時十五分に馬で出発し、午前十時に塩谷の浜に、そして忍路を過ぎ、余市に十二時に着く。
日誌から旅路の時間経過は上記のようになります。
小樽市手宮から小樽市塩谷を塩谷街道と国道5号線を休みなしに大人が歩くとやはりに2時間以上はかかると歩いてみた実感です。
松浦武四郎余市から小樽市高島への旅路の時間経過はわからないのですが、以下の点に興味を持ちました。
1)余市から忍路へは、「フゴッペ岬の上の坂を上がりて運上(忍路にあった西川運上屋)やえ直道有」の記載から国道5号線のフゴッペトンネル近くを越えて、小樽市蘭島の浜の道をそして忍路への山道をとおって忍路の運上屋へと行ったこと(この道は伊能忠敬の図からも余市・忍路間最短の道であることがわかります)
2)忍路湾を囲む山には今はない李が多く、「桃花源裏に入る心地せり・・・」と日誌に記載し、「見あぐれば すももからもも 桃さくら わかぬばかりに 咲みちにけり」と歌っていること。
3)忍路湾の入口にカブト岬(東岬)の記載があること(湾の西にポロマイ岬、カブト岬の東に竜ヶ岬がある:画像では竜ヶ岬のみ映っている)
4)忍路から桃内へはほぼ前に記載した道で、湾奥にあった西川運上屋→国道5号線忍路トンネルのそばの中央バスバス停→浜伝いに桃内となること
5)桃内から塩谷へは、チャアラセナイの山道(国道5号線のトンネル上の)をとおって塩谷の浜へ出たものと思われたこと
そして、アメリカ青年ロングフェローや旧会津藩士団もそして遠山の金さんのお父さんもこの道を通ったと思っています。
ただ、幸田露伴がこの道で余市から小樽へ向かったかは自信がないのです。
いずれにしても江戸末期から明治初年にはこの道が幹線道路だったのでしょう。
そして、西川運上家によって整備されていた幅二間(3.64m)の道がこの道と今考えています。
国道の整備や函館本線の開通まで主要な陸路であったと思っています。
なお、日本国有鉄道北海道総局(1973)北海道駅名の起源によると函館本線の函館小樽間は明治37年10月15日全通、然別・蘭島間が明治35年12月10日に、蘭島・小樽間が明治36年6月28日に開通。
画像は小樽自然海岸探勝路の赤岩山山頂近くの展望台から11月10日に撮ったものです。
遠く余市湾、忍路湾を抱く忍路(竜ヶ岬)、忍路と桃内・塩谷間、そして手前にオタモイ海岸の窓岩があります。
二枚目は余市湾の西にある余市町の象徴のようなシリバ岬、そして三枚目が竜ヶ岬からオタモイ海岸の窓岩です。
四枚目が塩谷文庫歌から桃内に至る山道を撮ったもので前の画像の左側になる。
ただ、手前にある家屋は小樽市オタモイでこの背後の山の間に国道5号線が塩谷に通じ、塩谷文庫歌から山道を桃内に抜ける。

落ち葉に足をとられて、小樽自然海岸探勝路で転んで詠む句一句、また駄句が増えました。
300句までまだまだだな。

   「探勝路 積もる落ち葉に 足とられ」  北 帰航(第68句)

カラマツの落葉の探勝路とそのほかの落葉の探勝路