旭展望台への遊歩道1

小樽にて2007年10月1日撮影

本朝八時十分ころ長橋十字街より遊歩道5号案内板へ、案内板からから旭展望台へ向かう。

案内板の至長橋十字街から○の5(1,532m)のコースを○の5→小林多喜二文学碑→旭展望台→西稜中学横の順に散策。
□の中に27と記載したあたりが小樽の木である白樺が多く、その間を歩くことになります。
この遊歩道は、気持ちが和みましたね。
小林多喜二文学碑は2007年8月29日に一度訪れたので、今日が二回目の訪問です。
前は小樽商科大学のほうから旭展望台→小林多喜二文学碑→小田觀螢歌碑→商大グランド横→長橋十字街の順に歩いたので、今回はほぼ逆のコースになります。

旭展望台から小樽市内や港、そして昨日の登った下赤岩山、手宮方面、小樽築港方面が一望できます。

「明治初年、アメリカ青年の見たニッポン」という副題のついた「ロングフェロー日本滞在記」を先日読み終えたところです。
その本の90頁に小樽から余市へ移動の記載があります。
余市まで25マイルを馬で移動しています(1871年9月30日土曜日:明治3年か4年と思うのですが)。
小樽から余市までどのようなコースをたどったのか興味のあるところです。
小樽市総合博物館運河館の明治8年の地図から小樽築港方面から海陽亭の前を経て当時市の中心街の堺町方面を抜けて、下図の丘(荒巻山)の背後の手宮を通り、塩谷街道を進んだのではないかと想像しています。
塩谷からは、「ロウソク岩の見える場所→余市余市で南に転じ峠(たぶん稲穂峠)を越えた」との記載から今のフルーツ街道を経たと推測されます。
一方、明治二十年八月二十五日午前九時に余市町沢町を馬で出発した幸田露伴は、桃内を経て小樽に入っています。
現在小樽から余市へは国道5号線のルートですが、この当時は小樽から塩谷への幹線道路は塩谷街道で、塩谷の先はいまのフルーツ街道を経たのではないかと想像しています。
今、バスで三十五分前後の時間を要します、馬での移動の当時は何時間かけたのだろうか。