余市川の秋早朝(2005年10月16日撮影)

帰りのお月さんはきれいでしたね。秋の月がなぜか一年のうちで一番きれいだと思っています。以前、職場で住所録を作成したときに、携帯電話を持っていなかった人は、少数ですね。その一人なのですが。さらに、自動車も所有していないとなるともう希少種です、きっと。小生ですが。マイカーは平成元年の3月に手放し、それ以来、マイカーと縁がありません。車は平成12年の12月初旬に釧路市浜中町間を運転して以来、ハンドルを握っていませんね。もうそろそろ運転をやめてから5年になるのですね。
携帯電話は、ポケベル、PHSなどとともに利用したいといまも思いません。不便と感じたことが少ないのです。カミサンが持っていますし、外出しても不便ではないのです。ただ、札幌駅などで公衆電話を年に数回かけることがあるのですが、公衆電話の設置場所が、以前に比べかなり少なくなったような気がしますね。
通勤時、高校生とよく一緒になります。元気に何が楽しいのかよくしゃべっていますね。そして、携帯電話を利用しているのもよく見ます。赤ん坊、携帯電話の使えない子供そして希少種が携帯電話を持っていないのでしょう、きっと。それくらい携帯電話は、普及しているのですね。現代は、何時でもどこででもすぐに携帯で相手とお話しできる時代ですね。会いたい、お話したいでもできないという苦しい感情は、現代ではないのでしょう、たぶん。恋歌が生まれずらい時代のようですね。
「恋」という言葉の語源になった「恋ふ」という言葉は、もとは「目の前にないものに心魅かれる」という意味のようです。
いつでもどこででも会え、声を聞ける時代には「恋ふ」という感情は、忘れられたのではないかと思われるのです。
万葉の時代には、恋歌などが現代の携帯電話にあたり、今も万葉時代の恋歌を詠む事で人を愛する感情、そして恋の本質を理解することができるのです。そこに万葉集の魅力のひとつがあると思うのです。
携帯電話では、恋歌など残らないですが、万葉集は千二百年以上経っても残っていて、しかも、平成の今が万葉集に一番関心が持たれ、研究も盛んな時代のようです。
カミサンと外出して、途中で別れ、待ち合わせ場所など再度連絡となったときなど携帯電話を持っていないと不便ですが、多分希少種であり続けるでしょう。持っていないことで便利なこともあるはずです、きっと。