小樽余市間の道を思う2

小樽市2007年10月25日撮影

一昨日小樽市オタマモイ入口から小樽市手宮に向かって塩谷街道を歩いた。
明治初年ころの小樽・余市間の道を体験したく思ったからです。
本来は小樽から余市に向かうのが順序ですが、登りを避けるためにオタモイ入口から手宮へ歩きました。
明治四年四月から七月に旧会津藩士団はたぶん徒歩で余市に向かったと思われます。

余市郷土研究会(平成六年三月二十日)余市移住 旧会津藩士の足跡 余市文化団体連絡協議会

上記の本に旧会津藩士団の余市入植とその後について資料をつけて詳しく記されていて、興味深く読みました。
ただ上記の本には、余市に向かった詳細な日時や経路などは記載されていないので「たぶん徒歩で」と書いたのです。
また、小樽市立図書館で読んだ下記の本にも小樽から余市への記載はないのです。

鈴木章実代(2003)「緋の衣」と会津藩士、そして余市

会津魂の武士団とその家族にとって小樽・余市間の移動は、大きな問題ではなかったので記載はなかったのだろうか。
バスや車で移動できる私にとって徒歩での移動は大変です。
徒歩で移動するのが普通の時代の会津の人には、入植後の生活のほうが何により大事だったとは思います。
小樽・余市間移動の苦労話は見つけること出来ないのです。
会津藩士団は会津降伏人と呼ばれ、兵部省の管轄にあったようです。
兵部省開拓使の北海道での縄張り争いで入植先が二転三転しています。
会津藩士団は開拓使兵部省の対立のあおりで不利をこうむり、余市入植後も開拓使の冷淡さが続いたようです。

会津藩士の足跡の資料(10)に「ケプロン日誌の余市」がありました。
明治六年八月二十一日に小樽から余市への馬での旅でした。
午前七時半オタルナイの宿舎を出て、余市には昼の十二時に着いているようです。
「今日の道は日本海に面する高い土地を通っている。海岸の山並みはいつも同じであるが、小さい山や谷からできている。ある所ではまるで垂直のようで、どんな動物でもやっと登ったり下ったりするほどである。実際恐ろしい馬の旅である。」と日誌に記載しているようです。
「明治四年の春、小樽からこの険道を越えて未開の余市川流域に、旧会津藩士団の人々は入ったのである。男は大小を腰に荷物を背負い、女は幼い子の手をひいての旅であった。ケプロンは馬でも半日かかったのだから、女や子どもにとっては一日がかりだったろう。」と資料(10)は結んでいる。

小樽余市間は国道5号線で18.5kmの距離です。

下の画像はオタモイ入口近くの国道5号線長橋バイバスとJR函館本線の間で小樽駅方面を撮ったものです。
右にバイバス(映っていない)、JR函館本線国道5号線(家並みの間で映っていない)そして左側に塩谷街道と私が思い込んでいる道があります。


同じ場所で今度は余市方面を撮ったものです。左からバイバス、JR函館本線、建物の右に塩谷街道合流後の国道5号線(画像には映っていない)があります。塩谷街道はオタモイ入口付近で国道5号線と合流するようです。

下記画像は塩谷街道のオタモイ入口の場所です。

塩谷街道の幸町から荒巻山を望む。荒巻山の左側に小樽市手宮が右側に小樽駅がある。

長橋なえぼ公園前の塩谷街道で、正面の山は荒巻山。
山の前で左に曲がる。

この十字路を左に曲がり、興聖寺前を通って荒巻山の左側の石山町への道へ。

興聖寺。この道はかってもっと狭い路であったようです。

興聖寺前の道を進み、手宮の石山町(荒巻山の左側)へ右に道を曲がったところです。

右に曲がって荒巻山を撮ったものです。

さらに進んで、小樽港方面を撮ったものです。

そして、小樽運河近くの道を左折し、すこし行ったところで旧日本郵船の建物の前に出ます。

ほぼ一時間ほどの旅でした。